2 ヨハネ10 (新改訳)
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
2 John 1:10 (KJV)
If there come any unto you, and bring not this doctrine, receive him not into your house, neither bid him speed:
(あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていないなら、あなたの家の中に彼を受け入れてはならないし、神があなたとともにいますようにと言ってもならない。)
読者の中にはこの御言葉に戸惑った方がいらっしゃるかもしれません。「家に受け入れてはいけません。」や「あいさつのことばをかけてもいけません」等ネガティブな言葉があるからです。今回もKing James Versionと日本語訳聖書を比較しながら、この御言葉について意味を追求してみたいと思います。
(1)「この教え」とはどのような教えでしょうか?
これは10節以前の御言葉を読むと分かります。
2ヨハネ6節(新改訳)
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
すなわち、御言葉に従順でありなさいという「キリストの教え」(9節)です。10節はどのような人がキリストの教えを持っていないかを教えていますが、実は日本語の聖書は正しく訳されていません。
まず、King James Versionから引用します。
2John 1:9 (KJV)
Whosoever transgresseth, and abideth not in the doctrine of Christ, hath not God. He that abideth in the doctrine of Christ, he hath both the Father and the Son.
(誰でも掟に背く者は、キリストの教えにとどまっておらず、神を持っていない。キリストの教えにとどまっている者は、父と御子を持っているのだ。)
あなたの聖書には何と書かれてありますか?
2ヨハネ10節
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。(新改訳)
だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。(新共同訳)
すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。(口語訳)
行き過ぎをしてとはどういうことなのか曖昧に感じませんか?
正しくは、父なる神の命令(掟)に背くことです。これは、第1ヨハネの手紙3章4節に書かれてあります。
1 John 3:4(KJV)
Whosoever committeth sin transgresseth also the law: for sin is the transgression of the law.
(誰でも罪を犯す者は律法も破るのだ。というのは、罪とは掟を破ることだからである。)
1ヨハネ3:4(新改訳)
罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
ここまでをまとめると、神の掟を守らなくてもいいのだと主張する者を家に受け入れてはならないということになります。
(2)「家に受け入れてはいけません」とはどのような意味なのでしょうか?
この意味を知る上で大事なことは、「家」が何を指しているのかを確認することです。
聖書では「家」という言葉がたくさん出てきますが、ここでは「主の家」または「神の家」を指しています。つまり神が住まう「主の宮」です。
さらに、新約聖書ではこのように言っています。
2コロサイ6:16(新改訳)
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
1コリント3:16(新改訳)
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
つまり、クリスチャン自身が神の住まう宮であり、神の家なのです。また次の御言葉が語っているように、私たち一人一人が神の家であると同時に、その集合体である教会も神の家なのです。
1コリント12:27 (新改訳)
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
エペソ1:23 (新改訳)
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
このように、「家」とはクリスチャン一人一人でもあり、また教会のことをも指していることが分かります.
「受け入れてはならない」とは正しくない教えをキリストの教えと折衷していはいけないということです。
一見正しいかのように見える偽クリスチャンもいます。一部だけ真実を伝え、自分がいかに正しいか主張したのち、信者をだますひとも大勢います。一部でも偽りが混じっていたなら、いっさい関わってはいけないのです。
聖書は次のように警告しています。
マタイ7:15
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
使徒20:29
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
(3)「あいさつのことばをかけてもいけません。 」とはどういう意味でしょうか?
一般的に普及されている日本語聖書ではこの「あいさつの言葉」が何を意味しているのか伝わりません。
King James Versionではneither bid him God speed(神があなた方とともにいますようにと言ってもならない)と 翻訳されています。
つまり、あいさつとは「こんにちは」などの挨拶ではないのです。
このあいさつの言葉は、聖書では使徒の書いた書簡に記されています。
一例として、ピリピ人への手紙4章23節で確認してみましょう。
Philippians 4:23 (KJV)
The grace of our Lord Jesus Christ be with you all. Amen.
(私たちの主イエスキリストの恵みがあなた方一同とともにありますように。)
なお、現代の日本語聖書はKJVのように訳されておらず、誤訳で有名なNIVと同じように訳されています。
The grace of the Lord Jesus Christ be with your spirit. Amen. (NIV)
(主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊とともにありますように。アーメン。)
どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。(新改訳)
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(新共同訳)
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(口語訳)
これでみなさんもあいさつの言葉の意味が分かったと思います。聖書ではこれらのあいさつの言葉は、主にある兄弟姉妹あての手紙に書かれてあるのです。
聖書に反する教えを持つ人には、神の霊が宿っていません。反対に悪魔を父に持っているのです。そのような人に投げかける言葉ではないのです。
神の恵みはどのような人に降り注がれるかは、聖書が語っています。
ヤコブ4:6
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」
(4)まとめ
第二ヨハネの手紙10節が語っていることは、自己や教会を悪い教えから守り、聖く(きよく)あり続けなさいということです。
悪い教えを信じる人と交流し続けていると、いつのまにか聖潔から離れてしまうことがよくあります。悪は私たちを変えてしまうことが可能なのです。
その一方で、私たちは悪い教えの人たちを変えることができません。
彼らを変えることができるのは、私たちの親切な心や言葉ではなく、聖霊の力によるのです。
また私たちが誰に挨拶するかによって、その人が主にある兄弟姉妹なのかどうか周囲の人にも分かるのです。
だから誰にでも「神があなたとともにいますように」と語りかけていいわけではないのです。
(もちろん、彼らの救いのために祈ることを忘れてはいけません。)
たとえば、カルバン主義は神の教えに反しています。
しかしながら、中には時々良いことを語るからといって、そのようなカルバン主義者を受け入れてしまう人も少なからずいます。
そうして彼らは救いの道から遠ざかってしまうのです。だから、どんなに小さな悪をも決して真理の中に入れてはいけないのです。
同じように、エキュメニズム(超教派統一運動というカトリックとプロテスタントの各宗派の歩み寄りを図る運動)も聖書に反しています。
一部でも聖書に反しているなら、すべてが悪なのです。
だから、カトリックや聖潔を否定する教えを純粋な福音に混ぜ合わせてはいけないのです。
それを理解しましょう。
半分だけ真理というのは存在しないのです。
Song of Solomon 2:15 (KJV)
Take us the foxes, the little foxes, that spoil the vines: for our vines have tender grapes.
(哀歌2:15 私たちのために狐を捕まえてください。ぶどうの木をだいなしにする小狐たちを。というのは、私たちのぶどうの木には柔らかく、もろいぶどうが実っているからです。)
小狐というのは、偽の教えをもつ偽預言者や偽教師や、あるいは偽の教えそのものです。教会は完全で、クリスチャンもすばらしく成長しているように見えるかもしれませんが、偽りが入り込むと教会をむしばんでしまうのです。
ガラテヤ5:9-10
わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。
私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。
Leviticus 20:7 (KJV)
Sanctify yourselves therefore, and be ye holy: for I am the LORD your God.
(それゆえ、あなた方自身を罪のないものとし、清めなさい。そして聖でありなさい。なぜなら私は主であり、あなた方の神だからである。)
☆英文聖句の日本語文は拙訳。
☆参考文献
”Neither bid him God speed - Και χαιρειν αυτῳ μη λεγερε· And do not say, Health to him - do not salute him with Peace be to thee! The usual salutation among friends and those of the same religion in the east is, Salam aleekum, “Peace be to you;” which those of the same religion will use among themselves, but never to strangers, except in very rare cases. This is the case to the present day; and, from what John says here, it was a very ancient custom. We have often seen that peace among the Hebrews comprehended every spiritual and temporal blessing. The words mean, according to the eastern use of them, “Have no religious connection with him, nor act towards him so as to induce others to believe you acknowledge him as a brother.” - Clarke’s Commentary on the Bible
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