2013年6月2日日曜日

クリスチャンは格好よくなくっていい


マタイ22:36-40
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

2ヨハネ6節
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

私たちクリスチャンは、主イエス様と隣人への真実の愛があるからこそ、悔い改めて救いを受け取ってほしいと願いながら、隣人に真実を告げることができるのです。その真実、真理とは神の御言葉です。
しかし、真実とはある人にとっては非常に忌み嫌われるものなのです。それは、その人の抱えている罪を暴き、罪状を突きつけることだからです。もし真理を聞かなければそのまま平穏に暮らしつづけたはずなのに、お気に入りのライフスタイルが決して正しいことではないのだと知らされた時、多くの人は反発したり、拒絶したり、あるいは聞かなかったようにふるまったりするのです。

ヘブル4:12
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ローマ7:7

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

しかし、福音とはよき知らせなのです。悔い改めて聖霊によって生まれ変わり、イエス様に従って正しく生きるのなら救われると聖書に書いてあるのです。


ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

1コリント6:11
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。


伝道とは、御言葉を通して罪を知らせ、悔い改めに導く行為なのです。悔い改めなければ、必ず人は地獄に行くのです。誰一人として喜んで地獄に行きたいと願う人はいません。神様ご自身それを避けたいと悲願しているのです。


エゼキエル18:32
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――だから、悔い改めて、生きよ

イエス様の霊のうちに生きるクリスチャンは、この神の心を痛い程知っているのです。だからこそ、どんなに拒絶されようとも、また迫害に遭おうとも、また命をかけても伝道しつづけるのです。これこそが主イエス様への忠誠であり、愛であり、自分のように隣人を愛するということなのです。

あなたはどのように隣人を愛していますか? 彼らが聞きたくない言葉を避けて、耳に心地よいことだけを語っていませんか?
拒絶されたり無視されることは、クリスチャン人生の一部です。
もし、クリスチャンになって今までも一度も拒絶されたことがないとしたら、あるいは誰からも嫌な思いをされたことがないとしたら、あなたのキリスト者としての人生は間違っているものと判断できます。
確かに傷つくのは誰も嫌です。しかし、嫌なことをあえて実行なさったのはイエス様なのです。イエス様は喜んで十字架についたわけではないのです。父なる神への忠誠と愛をもって、死んでくださったのです。だからこそ、今イエス様は引き上げられ、父なる神の右の座について、すべての名の上に君臨しているのです。


マルコ14:36
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

ピリピ2:6-9
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(新共同訳)
(この節では、新共同訳が謙遜という意味を残しているので引用しました)



イエス様のこの世での人生は、王族としての華やかさが全くありませんでした。身重のマリアとヨセフは親せきからさえ軽蔑され、泊めてくれる宿もなく、イエス様は家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのです。そして死ぬ時は、下着さえはぎ取られ、丸裸で最もひどい刑罰として十字架にかけられたのです。
しかし、私たちイエス様を信じる者にとって、イエス様の血は尊く、イエス様の生き様は私たちの目標なのです。


1コリント1:18
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1コリント1:25
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

1コリント1:21
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。


クリスチャンはこの世の目からみると全く格好よくありません。無様と言った方が正しいかもしれません。服装はシンプルで、豪華な装飾品も身につけません。大勢の人が飲酒やこの世のあらゆるエンターテイメント、快楽を堪能している間、それを拒絶し、人に嫌がられながらも御言葉を伝えていくのです。
しかし、イエス様はそのように傷つきながらもイエス様に従順な真の弟子を「あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と抱いてくださるのです。すべての悪から守り、癒してくださるのです。
よくやった、私の忠実な僕よと言って、純白の衣を私たちに着させ、花嫁として愛してくださるのです。


イザヤ43:4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

マタイ25:21
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』


一体あなたは今、どの道を進んでいるのでしょうか? 誰からも嫌われないように、そして何も失わないように、馬鹿にされないように、滅びに通じる広い道を通っていませんか?

イエス様のたどられた道は、時にひとりぼっちにされたように思うかもしれないのです。だけど、そのとき思い出してください。イエス様もお一人で祈っていたのです。そして父なる神の言葉を聞き、従い続けたのです。あなたも孤独の戦いの中で祈るとき、「恐れるな、私がそばにいる。私があなたのために戦う」という声が聞こえてくるはずです。


イザヤ41:13
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。

イザヤ51:7
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

クリスチャンは格好よくなくっていいのです。誰と比べるのでもなく、主の御前に染みのない生き方を貫いていってください。


1ペテロ1:2
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

(一部を除き新改訳聖書より引用)

Evangelist Yumi, Acts 29 Japan


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