2014年12月14日日曜日

取税人との食事


今回は、嫌われ者の代名詞ともいえる取税人についてお話したいと思います。取税人とは、文字通り税金取り立て人です。ただし、どうやら当時の取税人は、税金以上のお金を民衆から横暴に取り立て、自分の懐に納めていたと言われています。

まず、イエス様のたとえを読んでみましょう。

ルカ 18:1013
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

パリサイ人とは民族の一種ではありません。簡単に言えば、聖書に書かれてある戒律を形式的に守ろうとしたユダヤ人の一派です。彼らは自分達こそ聖書にのっとった生活を送っていると自負していました。
パリサイ人の祈りの言葉に注目してください。自分のことを「ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではない」(ルカ18:11)と表現しています。逆に考えると、すべての取税人がこうだったとは言いきれませんが、取税人とはこのような人物だったのかもしれません。
一方、取税人の祈りは私たちの心を打ちます。「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分を低くして、罪の赦しを乞いています。彼は自分犯してきた悪事を知っていたのです。

次に、取税人たちの気持ちが読み取れる御言葉を読んでください。

ルカ15: 1
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

取税人たちはイエス様の話を聞きたがっていたのです。彼らはうわさでイエス様のことを聞いていました。大勢の人にパンと魚を与えたこと、盲目や足萎えを癒したこと、貧しい者、悲しむ者は幸いだと語った山上の垂訓 これまで聖書学者が説いてきた話とは180度違う新しい教えと奇跡の数々を自分の目で確かめたかったのです。
人に嫌われていた理由も取税人たち自身理解していたと思います。自分の罪も知っていました。そんな行き場のない彼らも、もしかしたらイエス様が救ってくださるにちがいないと期待していたと思われます。つまり、真理を求める飢え乾きがあったのです。


では、実際取税人がどのような行動に出たのか、取税人ザアカイの話を読んでみましょう。

ルカ 19:110
それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ザアカイは取税人の頭で、金持ちであったようです。当然民衆からは嫌われ、罪人として見られていました。
ザアカイはイエス様の話を聞いていたので,自分の町に来ていると知って、イエス様とはどのような方なのか自分の目で確かめたくなりました。背丈の低いザアカイはまるで子供のようでした。ただイエス様を見たい一心で、肩越しに見えないか群衆の後ろで左右に動いたり、飛び跳ねたりしたことでしょう。それでも見えないので、ついに木の上に登りました。
それほど奮闘してまでイエス様を求めたザアカイにイエス様が目を留められました。

「きょうは、あなたの家に泊まる」(ルカ19:5)とイエス様は宣言されました。そしてザアカイは大喜びでイエス様を迎え入れたのです。

これはどういう意味でしょうか? 泊まるとは、一体何を示しているのか考えたことがありますか?

イエス様はザアカイの家で食事をとりました。ザアカイの家は裕福だったので、美味しいごちそうが出たはずです。しかし、ザアカイがその晩食べたのは、いつもの贅沢な食事ではなかったのです。彼は、命のパンであるイエス様の御言葉を食べたのです。

マタイ 4: 4
イエスは答えて言われた。「『パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

ヨハネ 14: 6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

イエス様が語られる言葉は真実のみです。正義を愛し、罪を憎む神の子です。イエス様は悔い改めを受け入れ、罪を赦す権限も与えられていました。
イエス様の言葉を聞いて、ザアカイは自分の罪深さを思い知りました。そして、救いを求めました。その時彼は罪の赦しを求めただけではありません。これからは正しく生きたいと強く願ったのです。イエス様の言葉には、罪人を悔い改めに導く力があるのです。

ザアカイの宣言の中に、彼の救いの実を見ることができます。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8

真に救われた者は、その行いにも変化が伴います。ザアカイの人生はイエス様を受け入れたことで180度転換しました。彼は正義を愛する人間に生まれ変わったのです。

ルカ5:32
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

詩編146: 7
しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕らわれを解放される。

クリスチャンであるあなたは、イエス様の御言葉を伝えるメッセンジャーです。あなたはもう罪人ではありません。イエス様は罪人を悔い改めさせたいのです。そして罪の鎖から解き放してあげたいのです。
イエス様がなさったように、悔い改めに導く真理を伝えてください。罪をうやむやにしたりせず、御言葉を伝えてください。それが私たちのすべき伝道です。

皆様にたくさんの祝福がありますように。



新改訳聖書より引用

Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN

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