2014年12月24日水曜日

聖餐式のパンとぶどう酒



今回は聖書で語られているぶどう酒の正体についてお話したいと思います。
ほとんどのプロテスタント教会で、多少の形式に違いはあっても、毎月聖餐式が行われていると思います。イエス様が最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子達に分け与えました。そのときの言葉に従って聖餐式は行われのが一般的です。また、第1コリント人への手紙の中で、聖餐式を受けるにふさわしい基準が記されています。
では、聖句を読んで確認してみましょう。



マタイ26:26-29
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません


1コリント11:23-30
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。


このパンは、イーストあるいはパン種とも呼ばれる酵母の入っていない、いわゆる「種なしパン」です。パン種を入れることによってパンは膨らみますが、パン種とは聖書では罪を表しています。パン種が入っていないとは、小さな疑念もなく、罪もない純粋さを象徴しているのです。

モーセ率いるイスラエル人たちをエジプトから脱出させたことを記念して、神様はモーセとその民に毎年過ぎ越の祭りをお祝いするよう命じました。そのときに、種なしパンを食べるように命じたのです。この過ぎ越の祭りにイエス様が弟子達と最後に食事をしたのが、最後の晩餐なのです。

この種なしパンを裂く行為は、肉体的には罪が全くないイエス様がカルバリーの丘でむち打たれ、十字架に釘で打ち付けられたこと、そして死んだことを意味します。一方霊的には、イエス様を信じる一人一人に、聖霊によってイエス様が分け与えられていることを意味しています。
そいうわけで、カトリックであれプロテスタントであれ、聖餐式で用いるパンは種なしパンなのです。

問題なのは、ぶどう酒の方です。多くの教会ではぶどうジュースが用いられていますが、中にはアルコールの入ったぶどう酒(ワイン)こそ聖書にのっとった聖餐式であると、胸を張っている教会も存在しています。はたして聖餐式で飲むぶどう酒は本当にワインを指しているのでしょうか?

答えはノーです。
聖書には2種類のぶどう酒が出てきます。1つはアルコールの入ったワインです。もう1つはアルコールの入っていないぶどうジュースです。

もう一度聖句を見てください。ここで示されているのは「ぶどうの実で造った物」(マタイ26:29「杯を飲む」ですが、どちらもアルコール入りのワインとは言っていません。仮にこれらの言葉がワインを指すのであれば、この2つ話の本質的意味が台無しになってしまうのです。

ぶどうの果汁をアルコール入りワインにする方法は、パンを膨らます過程と似ています。要するに、ぶどう汁に酵母を入れて発酵させるのです。
仮に、イエス様と弟子達が飲んだ杯が発酵したアルコール入りのワインだったとしたら、イエス様の血を象徴するものではなくなってしまうのです。いけにえとなるイエス様の血は、罪など混じりけのない純粋なものでなければならなかったのです。

それなのに、なぜ種なしパンとともに、酵母の入った(罪)ワインを聖餐式で飲むことができるでしょうか?

もう一度次の聖句を読んでください。

1コリント11:27
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

「ふさわしくない」とは罪から離れないでいる姿を意味しています。
ここからも分かるように、イエス様が命じるぶどう酒には一切アルコールが含まれていない、「ぶどうの実で造った」ぶどうジュースなのです。
もちろん、カナの婚礼でイエス様が水をぶどう酒に変えた奇跡においても同じことが言えるのです。

どうかサタンの罠にだまされないでください。
彼は今でも同じ台詞で人を欺き、地獄へと誘っているのです。
「ワインは体にいいのだよ。飲んだって、絶対に死にはしないよ」と。


創世記3:4
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」



ぶどう酒について書いた他の記事も参考にしてください。


新改訳聖書より引用
                                                                                                                           


Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN



2014年12月14日日曜日

ザアカイが迎え入れたものールカ19章より

以前書いた短いブログ記事より
「取税人との食事」と合わせてお読みください。「取税人との食事」


ルカ19:5,6
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

ルカ19:9,10
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


イエス様がザアカイに急いで下りて来なさいと言われた時、彼はそれを実行し、さらにイエス様をお迎えしました。ザアカイはイエス様を客として迎え入れたのではなく、主として心に迎え入れました。そして彼自身が神の宮となりました。イエス様は2,3日宿泊するつもりだったのではなく、ザアカイとともに永遠に生きるつもりでした。イエス様は命だからです。


新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN



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取税人との食事


今回は、嫌われ者の代名詞ともいえる取税人についてお話したいと思います。取税人とは、文字通り税金取り立て人です。ただし、どうやら当時の取税人は、税金以上のお金を民衆から横暴に取り立て、自分の懐に納めていたと言われています。

まず、イエス様のたとえを読んでみましょう。

ルカ 18:1013
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

パリサイ人とは民族の一種ではありません。簡単に言えば、聖書に書かれてある戒律を形式的に守ろうとしたユダヤ人の一派です。彼らは自分達こそ聖書にのっとった生活を送っていると自負していました。
パリサイ人の祈りの言葉に注目してください。自分のことを「ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではない」(ルカ18:11)と表現しています。逆に考えると、すべての取税人がこうだったとは言いきれませんが、取税人とはこのような人物だったのかもしれません。
一方、取税人の祈りは私たちの心を打ちます。「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分を低くして、罪の赦しを乞いています。彼は自分犯してきた悪事を知っていたのです。

次に、取税人たちの気持ちが読み取れる御言葉を読んでください。

ルカ15: 1
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

取税人たちはイエス様の話を聞きたがっていたのです。彼らはうわさでイエス様のことを聞いていました。大勢の人にパンと魚を与えたこと、盲目や足萎えを癒したこと、貧しい者、悲しむ者は幸いだと語った山上の垂訓 これまで聖書学者が説いてきた話とは180度違う新しい教えと奇跡の数々を自分の目で確かめたかったのです。
人に嫌われていた理由も取税人たち自身理解していたと思います。自分の罪も知っていました。そんな行き場のない彼らも、もしかしたらイエス様が救ってくださるにちがいないと期待していたと思われます。つまり、真理を求める飢え乾きがあったのです。


では、実際取税人がどのような行動に出たのか、取税人ザアカイの話を読んでみましょう。

ルカ 19:110
それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ザアカイは取税人の頭で、金持ちであったようです。当然民衆からは嫌われ、罪人として見られていました。
ザアカイはイエス様の話を聞いていたので,自分の町に来ていると知って、イエス様とはどのような方なのか自分の目で確かめたくなりました。背丈の低いザアカイはまるで子供のようでした。ただイエス様を見たい一心で、肩越しに見えないか群衆の後ろで左右に動いたり、飛び跳ねたりしたことでしょう。それでも見えないので、ついに木の上に登りました。
それほど奮闘してまでイエス様を求めたザアカイにイエス様が目を留められました。

「きょうは、あなたの家に泊まる」(ルカ19:5)とイエス様は宣言されました。そしてザアカイは大喜びでイエス様を迎え入れたのです。

これはどういう意味でしょうか? 泊まるとは、一体何を示しているのか考えたことがありますか?

イエス様はザアカイの家で食事をとりました。ザアカイの家は裕福だったので、美味しいごちそうが出たはずです。しかし、ザアカイがその晩食べたのは、いつもの贅沢な食事ではなかったのです。彼は、命のパンであるイエス様の御言葉を食べたのです。

マタイ 4: 4
イエスは答えて言われた。「『パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

ヨハネ 14: 6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

イエス様が語られる言葉は真実のみです。正義を愛し、罪を憎む神の子です。イエス様は悔い改めを受け入れ、罪を赦す権限も与えられていました。
イエス様の言葉を聞いて、ザアカイは自分の罪深さを思い知りました。そして、救いを求めました。その時彼は罪の赦しを求めただけではありません。これからは正しく生きたいと強く願ったのです。イエス様の言葉には、罪人を悔い改めに導く力があるのです。

ザアカイの宣言の中に、彼の救いの実を見ることができます。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8

真に救われた者は、その行いにも変化が伴います。ザアカイの人生はイエス様を受け入れたことで180度転換しました。彼は正義を愛する人間に生まれ変わったのです。

ルカ5:32
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

詩編146: 7
しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕らわれを解放される。

クリスチャンであるあなたは、イエス様の御言葉を伝えるメッセンジャーです。あなたはもう罪人ではありません。イエス様は罪人を悔い改めさせたいのです。そして罪の鎖から解き放してあげたいのです。
イエス様がなさったように、悔い改めに導く真理を伝えてください。罪をうやむやにしたりせず、御言葉を伝えてください。それが私たちのすべき伝道です。

皆様にたくさんの祝福がありますように。



新改訳聖書より引用

Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN

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2014年11月30日日曜日

イエス様の御名の意味

マタイ1:21 
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 

 ローマ6:23 
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 

イエス様は罪から私たちを救ってくださいます。その意味について考えたことがありますか? 多くの人は、イエス様が私たちの罪を赦してくださって、天国へ迎えてくださったと解釈していると思います。 そして、地獄での第二の死から救ってくださったのだと。
確かにその通りです。しかし、もう一歩深く考えてみませんか? 

ローマ6:23によれば、罪から来る報酬は死です、とあります。イエス様は私たちが日々罪を犯さなくてすむようにしてくださったのです。 

どうしても私たちは罪を犯してしまう弱い罪深い人間だと思っていませんか? もし、そう思っているのなら、まだイエス様を理解していないことになります。 罪を犯す者は誰でも裁きにあいます。洗礼を受けたことイコール救いの保証とはならないのです。洗礼を受けた後でも罪を犯したままなら、クリスチャンとなる前よりも厳しく裁かれるのです。 

ヘブル10:26 
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。 

 真理の知識を受けて後とは、キリストを知り受け入れてからということになります。つまり、クリスチャンが犯す罪について述べられているのです。 
 イエス様は私たちが罪を犯すことなく暮らせるように力を与えてくださいます。私たちが弱っている時、強めてくださいます。 

 2コリ12:9 
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 

 ピリピ4:13 
 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 

新改訳では意味があいまいなので、KJVで確認してみましょう。 

 Philipians4:13 
 I can do all things through Christ which strengtheneth me. 

私を強くしてくださる方とはイエス様のことです。この世において全く罪を犯すことなく、完璧ないけにえとなってくださった方。そして死からよみがえったイエス様です。 

テトス2:11-13 
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 

神の恵みが私たちにどのように生きていけばいいのか教えてくださるのです。この神の恵みはイエス様から与えられているのです。だから、恵みによって救われたというのは、この教えによって私たちが罪を犯さないで聖なる生き方ができるようになった。すなわち罪から解放されたという意味なのです。 

 神の恵みと憐れみを混同しないでください。 イエス様の名前の意味は私たちを罪から救うということでした。私たちが罪を犯さないですむように、罪の縛りから私たちを解放してくださったのです。ハレルヤ! 

皆様にたくさんの祝福がありますように!


新改訳聖書第3版及びThe King James Versionより引用  

 Evangelist Yumi 
 Acts 29 JAPAN
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2014年11月29日土曜日

憎む神、怒る神

今回は神が憎んでいることについて書いてみたいと思います。 

御言葉の引用は、日本語は新改訳聖書第3版(新改訳)、英語はThe King James Version (KJV)を用いています。 

 「神は愛なり」という言葉は、クリスチャンではない人の間でも深く浸透している考え方だと思います。彼らの解釈は、神様は愛のお方であるから、どんなことも受け入れ、許してくれ、愛してくれるというものです。あるがままの私を受け入れ、ずっと見守ってくださるという考え方です。 

しかし、聖書ではそのようなことは語られておらず、単なる人の思い込み、またはファンタジーと言えるでしょう。 下の聖句を読んでみてください。 

詩編 7:11 
神は正しい審判者、日々、怒る神。 

日本語のみでこの聖句を読んでみると、神様が何に怒っているのかよく分かりませんね。 KJVを読むと神様が怒っている内容が明瞭です。 

Psalm 7:11 
God judgeth the righteous, and God is angry with the wicked every day. 
(神は正義をもって裁き、日々邪悪な者に怒っている。) 

邪悪な者、つまり罪を犯している者に怒っているのです。神様は罪から離れない人を受け入れてはいないのです。神様は悪を行う者を裁かれます。 

ローマ8:16 
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

この御言葉が示す通り、クリスチャンは神の子です。私たちのお父さんは神様なのです。神様の子であるなら、神様の愛することを愛し、憎むことを一緒に憎んでいかなければならないのです。 もし、心地よい罪から離れたくない、あるいは離れがたいと思っているのなら、あなたのお父さんは神様ではありません。悪魔です。 

ヨハネ8:44 
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 

 ところで、あなたの生き方は神様を喜ばせていますか? 神様を怒らせたり悲しませたりしていませんか? つまり、聖書の言葉を口では愛していると言いつつ、同じ口から相手をののしる言葉が出てしまったり、または心の中で思ってしまったり…酒やタバコをやめられないでいたり、または隣人の罪を容認してしまったり...心の中で姦淫を犯してしまったり、他人のものをうらやましがったり… 

箴言8:13 
主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。 

1コリント6:9-10
 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。 

ちなみに、不品行な者には同性愛も含まれます。 

これらの悪も神様は許してくださっていると教えている偽預言者(牧師)も多く存在しています。でも、だまされてはいけません。だまされたままでいることも罪なのです。 

ルカ9:23 
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 

KJVにはこう書いてあります。

Luke 9:23 
 And he said to them all, If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow me. 

「自分を捨て」”deny himself”とは、あなたのこの世で願っていることをあきらめなさいということです。イエス様の弟子は父の葬儀に出ることをあきらめました。家族との生活もあきらめました。最後には自分の命をも捧げました。 

「自分の十字架」とはあなたのこれまでの罪深い生き方を指しています。罪のうちに生きることは居心地良いものです。その慣れ親しんだ罪の生活を断念し、心の十字架にはりつけます。そして、イエス様の言葉を守るため、そしてイエス様の御言葉を広げていくため、心の中で十字架を背負いつつ一生を捧げていくのです。 

宣教師の多くは、この世で味わうことができる幸せを十字架にかけ、神様を知らない人たちの中に身を捧げました。ある人は結婚をあきらめました。ある人は豊かな生活をあきらめました。ある人は仕事をあきらめました。それらを享受することは罪ではなかったと思います。でも、この御言葉を胸に、イエス様の道を歩んでいったのです。そして、今私たちに信仰をもつ道が拓かれたのです。

ローマ8:8 
肉にある者は神を喜ばせることができません。 

ヘブル11:6 
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

「肉にある」とは罪を犯している状態を意味しています。クリスチャンであっても罪を犯せば神様を怒らせているのです。決して神様が喜んでいると思ってはいけません。信仰とは、イエス様の力にすがれば罪を克服できるという信頼と実行力です。 

神様の愛する義をあなたも愛しますか? 義とは神様の言葉すべてです。あなたがもし神様を愛するなら、神様もあなたを喜んで受け入れてくださいます。 

ヘブル1:9 
あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」 

この聖句に「神よ」という呼びかけがありますが、実際は「神は」と訳した方が分かりやすいと思います。これは神様への言葉ではなく、神様を信じて愛する人への言葉だからです。 

神様に喜ばれる聖なる生き方をしましょう。そうすれば、神様はあなたを何倍にも祝福してくださることでしょう。

Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN


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2014年11月25日火曜日

クリスチャンになってからの罪

ルカ23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

この御言葉は、イエス様が十字架上で亡くなられる前、父なる神に懇願した祈りの言葉です。誰かに傷つけられた時、私はこの御言葉を思い出し、相手を傷つけ返すことよりも、その人は自分で何をしているのか分からないのだ、赦そうという気持ちに導かれます。

しかし、中にはこの御言葉を用いて、自分の罪深い生活を正当化しようとしている人も少なからず存在しています。彼らはイエス様のこの祈りによって、自分達の罪はすでに赦されていると誤解しているのです。

今回はこの誤解を解くために、クリスチャンになってからの罪について語りたいと思います。

もう1つ、誤解を招きやすい御言葉を紹介したいと思います。

1テモテ1:13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

パウロは、かつてクリスチャンを迫害していた中心人物であったことを告白しています。この御言葉を読むと、どんなにひどい罪を犯したとしても、神様は赦してくださるのだと安心できますね。

でも、気をつけて読んでほしいのです。これは、パウロがまだ熱心なユダヤ教徒であったとき、イエス様の愛を知らないで行った罪のことについて語っているのです。これが、「信じていないときに知らないでしたこと」という意味です。

冒頭で紹介したイエス様の祈りにも同じような言葉が語られています。「彼らは何をしているのか自分でわからない」という言葉です。つまり、大切なことはこの2つの聖句は、イエス様は何でも赦してくれるからクリスチャンになってからも罪を犯してもいいと言っているのでは決してないのです。むしろ、イエス様とイエス様の掟を知らない人たちと、心から罪を悔い改めた人に向けての言葉なのです。

エレミヤ31:33
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

1ヨハネ3:5
キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

1ヨハネ5:18
神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

聖霊によってクリスチャンとして生まれ変わる時、神様は掟を私たちの心に刻んでくださいます。私たちの心に聖霊が住まうからです。イエス様が私たちのうちに住まわれ、私たちはイエス様の命を生きるのです。だからもう罪を犯さないですむのです。
イエス様は御言葉です。そして道であり、真理であり、命であることを忘れないでください。


ヘブル10:26
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

「真理の知識を受けて後」とは、クリスチャンになってからという意味です。「ことさらに罪を犯し続ける」とは、罪と知りつつ罪を犯し続け、罪から離れないという意味です。

ルカ12:10
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。

もしクリスチャンになってからも、まだ罪深い生活をし続けても大丈夫と信じているなら、あなたは聖霊の力を否定している偽り者と断定されます。心から悔い改め主の元に立ち返らない限り、あなたは燃える火の海に投げ込まれることでしょう。

あなたはそれでも手放しがたい罪に身をゆだねていたいですか? 
今すぐ悔い改めなさい。そうすれば憐れみ深いイエス様は赦してくださって、イエス様の義に導いてくださることでしょう。
みなさまの上にたくさんの祝福がありますように。



Evangelist Yumi 
Acts 29 JAPAN




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