2015年2月7日土曜日

三位一体を日本語聖書は削除した!

新改訳聖書も、新共同訳聖書も、口語訳も第一ヨハネの手紙5章7節を正しく翻訳していません。
神の言葉を削除してしまっています。


1ヨハネ5:7 

あかしするものが三つあります。(新改訳)

あかしするものが、三つある。(新共同訳)

証しするのは三者で、 (口語訳)


本当は、この御言葉ははっきりと三位一体を宣言しているのです。
下のKJV訳を日本語に直訳すると以下のようになります。


1 John 5:7For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.


(というのは、天で証しているものが三つある。すなわち、父、御言葉、そして聖霊である。そしてこれら三者は一つである。私訳)


ここで、父とは父なる神、御言葉とは御子イエス様を指しています。神、イエス様、聖霊は一つであると宣言しているです。
しかし、日本語の主な聖書ではこの大切な部分を削除してしまっています。
なんと恐れ多いことでしょう。

ヨハネの黙示録22:19 (新改訳)
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。


この御言葉は真実です。
日本語訳聖書が真理に基づいて翻訳される日がきますように。



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Evangelist Yumi, 
Acts 29 Japan


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2015年1月31日土曜日

小さな信仰と祈り


同じ罪を何度も繰り返し、もう神様に見捨てられているのかな、もう自分には天国に行く資格がないのかな、と不安になったことがありませんか? 
聖書を読むと自分の罪が見えてくるので、もう聖書を開きたくない、あるいは開く気持ちが薄れてしまったと思ったことがありませんか?

信仰を持ち続けたいのに、罪の中で堂々巡りをして辛い気持ちでいる方々を思いつつ、この記事を書いています。

神様は、私たちに大きなことを要求しているわけではありません。
このことをまず心に留めてください。
神様はあなたにスーパー牧師になりなさい、と言っているのではないのです。
メガチャーチを建てなさいとも言っていません。


マタイによる福音書17:20

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。


ヘブル 11: 6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


ただ、からし種ほどの小さな信仰があればいいと言っているのです。
からし種を写真で見ると、数ミリの小さな粒でしかありません。ゴマ粒程度の小さな種です。
この程度の純粋な信仰があれば十分だとイエス様はおっしゃっているのです。







罪や依存症に苦しんでいる時、あなたは救われたいと願っているはずです。
その願いがあるうちは、まだ神様はあなたを見放していません。
では、どうすればいいのでしょうか?

答えは、祈りです。
難しく考える必要はありません。
あなたの心の内をありのまま父なる神様に伝えればいいのです。

たとえば、親は子供のことをいつも気にかけ、心配しています。
そして幸せになってほしいと常に願っています。
学校や勤務先でうまくいっているだろうか? 
人間関係でつまずいていないだろうか? 
いくつになっても我が子の健康や安全などを心配し、離れていれば早く会いたいと思うものです。
何かあった時はもちろん、何もないような平凡な日でも、子供の声を聞きたいのです。
このような親の思いを知っている子供はあまりいません。




 同じことが、神様と私たちとの関係にも言えるのです。
どんな些細なことでも、神様は祈りを通じてあなたの声をききたいと願っています。
そして、あなたが失敗して傷つかないように教えてあげたいのです。
あなたが泣いている時、あなたを慰め、励ましたいと願っているのです。
あなたが喜びに満ち溢れている時、一緒に喜びたいのです。

あなたが罪の中でもがいている時でさえ、神様はあなたを助けたい、苦しみの中から救い出してあげたいと切望しているのです。
傷つき、泣いているあなたを神様は置き去りにしたくないのです。

たったからし種一粒の信仰があればいいのです。
「神様なら、罪の苦しみから救い出してくださるにちがいない」
このようなシンプルな信仰が神様を喜ばせているのです。
私たちには小さなことに見えるかもしれません。
けれど、父なる神様にとって、我が子からの尊い呼びかけなのです。


神様とのホットラインをつないでおく秘訣があります。

それは、聖書を読み続けること。
そして、祈り続けること。



マタイによる福音書11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

1ペテロ 5: 7
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

詩篇66:1920
しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。



たくさんの祝福がありますように。


新改訳聖書より引用



Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan





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2015年1月25日日曜日

信仰 ー 失望から希望へ

 クリスチャンになったら、いつでも元気で明るく、平和に楽しく過ごせると思っている人もいるかもしれません。しかし実際のところ、クリスチャンであろうとなかろうと、人生においてたくさん悲しみや苦しみを経験しています。それどころか、聖書に忠実にいければ生きるほど、多くの涙を流すことになるのです。

現代を生きる人だけがうつ状態になるのでしょうか? それも正しくありません。聖書に登場する人物で、失望や絶望を経験しなかった人はいなかったと思います。たとえば、創世記に出てくるヨセフを例にとってみましょう。

ヨセフは12人兄弟の11番目の子供で、10人の異母兄にあまり良く思われていませんでした。父親はヨセフを兄弟の中で最も愛していたので、兄たちはヨセフを妬んでいたのです。ある日、兄たちはヨセフを陥れようと企てました。初めは殺人を計画しましたが、途中で計画を変更し、エジプトに奴隷として売り飛ばしてしまったのです。この時、ヨセフはたった17歳でした。
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この時以来、ヨセフは正しいことをしても裏切れていくという辛い生活が始まったのです。
 暗い穴の中で、あるいは異国に連れて行かれる道中で、ヨセフはどれほど落ち込み、絶望したことでしょう。
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エジプトでは、主人の妻に毎日のように誘惑され、その誘惑を拒み続けると、彼女は逆ギレしてヨセフに犯されたとヨセフを訴えました。その結果、ヨセフは無実の罪で牢屋に入れられてしまいました。









image牢獄にいる間、他の囚人の夢解きを手伝ってあげた時、ヨセフは1人の囚人に晴れて釈放されたら、自分の無実を主張してヨセフも釈放されるようお願いしました。しかし、その囚人は自分の喜びでいっぱいで、ヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。ヨセフは再び裏切られたのです。この時も、どれほど失望したことでしょう。

彼がエジプトを統率するまで13年間、奴隷と囚人として過ごしたのです。
ヨセフの苦しみは、次の御言葉のうちに読み取ることができます。






創世記 41:51-52
ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

創世記 42:21
彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれが(ヨセフ)われわれ(ヨセフを裏切った異母兄)にあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

これらの聖句を読むと、ヨセフ自身苦しみを告白したこと、ヨセフの兄らもヨセフの苦しみを知りながら裏切ったことが分かります。

しかしながら、囚われの身であった期間、ヨセフは絶望の淵に居続けたわけではありませんでした。彼には信仰があったからです。

主なる神がいつもともにおり、自分を守ってくださる、異国の地から助け出してくださると信じていたのです。
実際、神様はヨセフのいく先々でヨセフを祝福し、ヨセフのなすことすべてを祝福しました。そのため、周囲の人たちもヨセフを信頼し、奴隷であった時も囚人であった時も、責任者として周囲の管理を任されていたのです。

彼の篤い信仰は、自分の苦しみにも意味があるのだ、神様が自分と自分の民族の運命も握っているのだという確信に導いていたのです。
次の御言葉は、ヨセフが兄達に自分の正体を打ち明けた時の言葉です。


創世記45: 4−7
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。



人は信仰によって生きるのです。
信仰によって救われるのです。
クリスチャンであっても、落ち込むこともあるでしょう。
しかし、倒れても起き上がるのがクリスチャンです。
死ぬほどの境地に置かれても、生きようとするのです。
なぜなら、私たちはもう自分のために生きているからではないからです。
私たちのうちにおられるイエス様のために生きているからです。


ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

1コリント10:13
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ヨハネの黙示録 3:10
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

ローマ 5:4-5
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi,
Acts 29 JAPAN


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