2015年1月31日土曜日

小さな信仰と祈り


同じ罪を何度も繰り返し、もう神様に見捨てられているのかな、もう自分には天国に行く資格がないのかな、と不安になったことがありませんか? 
聖書を読むと自分の罪が見えてくるので、もう聖書を開きたくない、あるいは開く気持ちが薄れてしまったと思ったことがありませんか?

信仰を持ち続けたいのに、罪の中で堂々巡りをして辛い気持ちでいる方々を思いつつ、この記事を書いています。

神様は、私たちに大きなことを要求しているわけではありません。
このことをまず心に留めてください。
神様はあなたにスーパー牧師になりなさい、と言っているのではないのです。
メガチャーチを建てなさいとも言っていません。


マタイによる福音書17:20

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。


ヘブル 11: 6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


ただ、からし種ほどの小さな信仰があればいいと言っているのです。
からし種を写真で見ると、数ミリの小さな粒でしかありません。ゴマ粒程度の小さな種です。
この程度の純粋な信仰があれば十分だとイエス様はおっしゃっているのです。







罪や依存症に苦しんでいる時、あなたは救われたいと願っているはずです。
その願いがあるうちは、まだ神様はあなたを見放していません。
では、どうすればいいのでしょうか?

答えは、祈りです。
難しく考える必要はありません。
あなたの心の内をありのまま父なる神様に伝えればいいのです。

たとえば、親は子供のことをいつも気にかけ、心配しています。
そして幸せになってほしいと常に願っています。
学校や勤務先でうまくいっているだろうか? 
人間関係でつまずいていないだろうか? 
いくつになっても我が子の健康や安全などを心配し、離れていれば早く会いたいと思うものです。
何かあった時はもちろん、何もないような平凡な日でも、子供の声を聞きたいのです。
このような親の思いを知っている子供はあまりいません。




 同じことが、神様と私たちとの関係にも言えるのです。
どんな些細なことでも、神様は祈りを通じてあなたの声をききたいと願っています。
そして、あなたが失敗して傷つかないように教えてあげたいのです。
あなたが泣いている時、あなたを慰め、励ましたいと願っているのです。
あなたが喜びに満ち溢れている時、一緒に喜びたいのです。

あなたが罪の中でもがいている時でさえ、神様はあなたを助けたい、苦しみの中から救い出してあげたいと切望しているのです。
傷つき、泣いているあなたを神様は置き去りにしたくないのです。

たったからし種一粒の信仰があればいいのです。
「神様なら、罪の苦しみから救い出してくださるにちがいない」
このようなシンプルな信仰が神様を喜ばせているのです。
私たちには小さなことに見えるかもしれません。
けれど、父なる神様にとって、我が子からの尊い呼びかけなのです。


神様とのホットラインをつないでおく秘訣があります。

それは、聖書を読み続けること。
そして、祈り続けること。



マタイによる福音書11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

1ペテロ 5: 7
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

詩篇66:1920
しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。

ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。



たくさんの祝福がありますように。


新改訳聖書より引用



Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan





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