2012年8月26日日曜日

ヨハネ10章1-5節について


 日本語聖書で読むと曖昧な部分も、欽定訳(KJV)で読むとはっきりすることがとても多いです。さらには、翻訳が全く異なっていることに驚かされる場合もあります。
今回はヨハネの福音書より、羊飼いについて記されている101-5節について説明したいと思います。下は私の翻訳ですが、意訳せずに直訳しました。そうすることで御言葉がはっきり伝わるからです。


ヨハネ10:1-5(KJV の私訳)
1 Verily, verily, I sayunto you, He that entereth not by the door into the sheepfold, but climbeth upsome other way, the same is a thief and a robber.
まことに、まことにあなた方に告げます。羊の囲いの中に戸口(ドア)を通らないで入らず、他の道をのぼって来る者は、泥棒や強盗と同じです。)

2 But he thatentereth in by the door is the shepherd of the sheep.
  (しかし、戸口を通って入るのはその羊達の羊飼いです)

3 To him theporter openeth; and the sheep hear his voice: and he calleth his own sheep byname, and leadeth them out.
 (門番は羊飼いに戸を開けます。そして羊達には羊飼いの声が聞こえるのです。羊飼いは名前で自分の羊を呼び、先導するのです。)
4 And when heputteth forth his own sheep, he goeth before them, and the sheep follow him:for they know his voice.  
 (そして、羊飼いが自分の羊を外に連れ出す時、羊飼いは羊の前に立ち、そして羊は彼の後について行くのです。なぜなら、羊達は羊飼いの声を知っているからです。)

5 And a strangerwill they not follow, but will flee from him: for they know not the voice ofstrangers.  
 (羊達は見知らぬ者にはついて行かず、かえってその者から逃げます。というのは、羊達は見知らぬ者の声を知らないからです。)



ここで注目していただきたいのは、英語のdoor wayです。新改訳聖書等日本語聖書では見逃しがちですが、このdoorはノアの箱船の戸です。wayとはイエス様のことです。


Genesis 6:16 
 A window shaltthou make to the ark, and in a cubit shalt thou finish it above; and the doorof the ark shalt thou set in the side thereof; with lower, second, and thirdstories shalt thou make it.

創世記6:16 
 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。(新改訳)
   Genesis7:16  
 Andthey that went in, went in male and female of all flesh, as God had commandedhim: and the Lord shut him in.

 創世記7:16
はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。(新改訳) 

John 14:6  Jesus saith untohim, I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, butby me.

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(新改訳)


私たちクリスチャンはイエス様を羊飼いとする羊の群れです。
どこにいれば私たちは悪(罪)から守られるのでしょうか? それは、囲いの中です。 では、「羊の囲い」(新改訳)とはどういう所なのでしょうか?
手元にある辞書(Oxford英英辞典)では次のように説明しています。

sheepfold: an area in afield surrounded by a fence or wall where sheep are kept for safety. 
(羊の安全のために柵や壁で囲まれた原っぱ) 


羊=クリスチャン 
柵や壁=イエス様への信仰 
原っぱ=牧草地=食べ物(御言葉)と水(聖霊)の豊かな土壌 

私たちはキリストへの信仰を貫き通すことで、命の糧である御言葉と命の水である聖霊に満たされ、罪を犯さないですむのです。 



1ヨハネ5:18  神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(新共同訳)  


さらには、豊かな土壌にいるため、私たちはイエス様のように正しく生きることができるようになり、御霊の実や永遠の命にいたる聖潔の実を豊かに実らせることができるのです。   



ローマ6:22   しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(新改訳)


私たち羊が安心して過ごせる場所は、イエス様以外にないのです。では、イエス様のうちに住まうとはどういうことなのでしょうか?
ヨハネの福音書ではイエス様とつながる方法も教えてくれています。



ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

ヨハネ15:10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(新改訳) 

レビ記25:18-19あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。(新改訳)




羊飼いは私たちを命をかけて悪から守ってくださいますが、御言葉を守らなければ囲いの内にいるとは言えないのです。 さあ、あなたはイエス様の声に聞き従いますか?それとも、見知らぬ者の誘いにのって、永遠の命を放棄してしまいますか?  信仰の創始者であり完成者である私たちの羊飼いイエス様についていきましょう。 この記事がみなさんの祝福になってくだされば幸いです。 



(英語の聖句はKingJames Version より引用) 


Evangelist Yumi, Acts 29Japan





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2012年8月4日土曜日

反論に対する回答2「歌を伝道の武器にしていませんか?」について

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。-マタイ12:34 


聖書は心に満ちていることが口から出てくると言っています。
聖霊に満たされた人間は当然御言葉が出てきます。
 それが生きる基準だからです。

 宣教とは、御言葉を宣言して行く行為であり、また礼拝でもあります。
イエス様が弟子達を世に送り出したのは、歌を歌わせるためではなく、悔い改めの宣教をさせるためです。
イエス様ご自身がそうでした。
バプテスマのヨハネもペテロもそうです。
それが神の御心なのです。 


この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」-マタイ4:17 


神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。――このパウロから、-テトス1:3 


神様が人を救う手段に宣教を定めました。私でも他の牧師でもないのです。もし、これが受け入れられないのなら、あなたは神の反逆者です。 


事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。-1コリント1:21 


あなたが御言葉を宣言し続ける宣教を恥じるなら、イエス様もあなたを恥じることでしょう。
もし、宣教を愚かなことだと思うのなら、その宣教は御言葉に従順だという証拠です。
宣教の言葉の愚かさを通して人を救うのが神だからです。 


このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」ーマルコ8:38 



ヨハネのバプテスマが殺されたのはなぜでしょうか? 神の言葉を宣言し続けたからです。
イエス様が殺されたのはなぜですか? 父なる神の言葉を宣言し続けたからです。
 ステファノが殺されたのはなぜでしょうか? イエス様の復活の証人として御言葉を曲げなかったからです。
 歌を歌って殺されたのではないのです。
 歌は宣教ではないのです。


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ーヘブル4:12

御言葉は鋭く聞き手の心を貫きます。罪にまみれた生き方をしている人間は、当然のように拒絶反応が出てきます。自分が正しいと主張し続けるなら、神はその人を高慢な者とみなしますが、反省し、救いを求める者はへりくだった者として、恵みを豊かに注ぎ、救いに導くのです。


しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ーヤコブ4:6


それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。ーテトス3:7

 もし聖書の言葉を受け入れないまま賛美歌を歌っているのなら、それは真の賛美ではありません。ただ気分がよくなるために歌っているだけであり、それを伝道と言っているなら高慢でしかありません。
何を伝道しているのか、非常に疑問です。


(新改訳聖書より引用)



Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年8月3日金曜日

質問回答その1「歌を伝道の武器にしていませんか?」について

前回の記事「歌を伝道の武器にしていませんか?」を読んでいただきありがとうございました。 おかげさまで大反響を呼び、質問もいくつかお受けしましたので、その回答の一部を掲載したいと思います。 このブログを通して皆様に祝福がありますように。

 【質問】賛美や奉仕は証となり、証の手段として賛美をしてもよいのではないか?

【回答】
 まず、証は福音ではありません。 また、音楽を通して伝道するようにという命令は聖書のどこにありますか? 

宣教とは御言葉を宣言して行く行為です。
律法を提示することは、今のあなたの現在の姿を示してくれます。
あなたが今どんな状態であるのか。
そのままで神に喜ばれるのか、あるいは怒りのあまり地獄に落とされる状態なのか。
そして、初めて自分には助けが必要だと理解できるのです。

 多くの人が誤解していますが、福音とはあなたの罪を赦すこと、それだけではないのです!!
 洗礼を受けたからといって、必ずしも天国にいけるとは限りません。
 暗闇のうちを歩いているのなら、神と正しい関係にありません。
 福音とは、罪から解き放たれることが可能であると知らせることです。
 罪から解放されるとは、もう罪を犯し続ける必要がないということです。
 暗闇の世界から解放され、イエス様が歩んでこられたように、聖い生き方をすることが可能であり、そうすることで救われるのです。
なぜなら、罪人は天国にいけないからです。
そのためには、罪を悔い改め、イエス様を救い主、あなたの人生の主として受け入れ、聖霊に造りかえてもらわなければならないのです。


 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。-ヘブル12:14 


「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」1ヨハネ1:6,7 


賛美歌を歌うことによって、このような説明ができますか? 
賛美や奉仕はクリスチャンとして当たり前の行為ですが、それは伝道とは言えません。 


「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」 1コリント9:16 


「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」ヤコブ4;17

(新改訳聖書より引用)

 Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年7月29日日曜日

歌を伝道の武器にしていませんか?

音楽や歌は神を賛美する上で大事なものですが、正しい位置づけが求められています。歌を伝道として重要視する教会は多いですが、それは聖書的では全くありません。ノアは音楽を通して宣教しましたか? バプテスマのヨハネは、歌を歌って捕らえられたのですか? イエス様や使徒達は、クワイアをつれて宣教したのでしょうか? パウロが牢屋で教えたのは歌でしたか?

  事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。1コリント1:21

宣教とは、誰の目にも快いとされるものではありません。宣教とは、御言葉を伝えることです。罪人に悔い改めるように伝えるには、神の戒めを説き、人々が罪を犯していることを教えなければなりません。それは、相手の心を傷つける行為でもあるのです。

  神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ヘブル4:12


ヨナが神の命令に背いて逃げたのも、このためなのです。神はヨナに歌を歌って人を悔い改めに導けとは決して命じませんでした。

 伝道におけるあなたの武器は何ですか?甘い言葉や優しい笑顔ですか?明るい性格ですか?もしそれなら、あなたは福音を正しく伝えていないのでしょう。
福音とは罪の赦しだけではありません。正しく生きることが神の力によって可能だと伝えて行くことです。それを御言葉でバックアップできますか?

 イエス様の兵士(クリスチャン)は神の武具を身につけ、神の言葉を武器にしなければなりません。あなたが人を傷つけているのではなく、神の言葉が鋭く心に突き刺さるためです。イエス様の言葉に力があるからです。

あなたの優しさや親切さを、神の言葉よりも優先してはいけません。 もし、神の言葉よりも人間的な温かさで人を導こうとしているなら、あなたは弱虫であり、高慢であり、そしてイエス様を信じていないことになります。

(新改訳聖書より引用)


Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年6月16日土曜日

The Holy Birth of Jesus


Luke 2:7And she brought forth her firstborn son, and wrapped him in swaddling clothes, and laid him in a manger; because there was no room for them in the inn.


Jesus was born separated from the world. How Holy it was! People might have judged Mary and Joseph as sinful but in fact they were truly obedient to God. 


Matthew 5:3Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.


Who were at the presence when baby Jesus was born? There were Joseph and Mary with some animals in the stable. Also the shepherds rushed into there and worshiped Him. They all had a pure heart so that they didn't suspect angel's messages from God and could be a witness of the birth of Jesus the Savior. Further more even the foreign wise men were eager to see the King of Jews in person and worship Him. They didn't wish for any rewards but just wanted to see the Prince to worship. And they changed their ways to home since they had warnings from God in their dreams. 


Matthew 2:2 Saying, Where is he that is born King of the Jews? for we have seen his star in the east, and are come to worship him.
Matthew 2:12 And being warned of God in a dream that they should not return to Herod, they departed into their own country another way. 


The King Herod stands for the wicked world and God protected Jesus and the wise men from his attacks. He didn't just save their lives from Herod but also their path unto holiness from the world. The wise men worshiped young Jesus… The Bible tells us how we should worship the Lord and that is to worship Him by living out holiness in our life. So I believe since they worshiped Jesus in person they changed their way of living into the new one which was sepearated from the world. 


Psalm 96:9Oworship the LORD in the beauty of holiness: fear before him, all the earth. 

Matthew 5:8 Blessed are the pure in heart: for they shall see God. 

They really saw God. When we seem to have difficulties, we will remember where the blessings and protection come from. When we have a pure heart, God will protect us from the evil and we will keep on walking the path of holiness.

May God bless you!

(KJV)

Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年6月8日金曜日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。ーイエス・キリスト

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。(ヨハネ10:7)

イエス様が「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言うとき、私たちがイエス様に対して自分の意見を述べることを望んでいるのではなく、むしろ御言葉に聞き従うことを望んでいるのです。誰もがイエス様の声を聞けるわけではありません。イエス様の羊だけに聞こえるのです。その羊とはへりくだった心を持ち、恵みを受け取って羊飼いに従って行く用意ができているのです。 

 
  しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)
イエス様は羊の門(KJVではdoorー扉と訳されています)と言っていますが、羊や扉とはどのようなものなのでしょうか? 

 扉といえば、ノアの箱船が思い浮かぶことでしょう。ノアは扉をくぐって箱船に入り、神が最後にその扉を閉めました。誰もが箱船に入ったわけではなく、ただノアとその家族だけが入ったのでした。ノアは神の御前に完全であり義の(正しい)人でした。ノアは神様の命令をすべて守り抜きました。それとまったく同じように、私たちも扉(イエス様)をくぐるとき、神の目に義であり完全でなければならないのです。 


まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51) 


主イエス様は私たちの羊飼いであるとともに、神の子羊でもあります。裁きの座で、イエス様はご自分が着ているような純白でけがれのない衣を私たちも着ているかどうか見ることでしょう。 


 そこで、王は言った。『友よ。あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。(22:12) 


 この礼服とは、聖潔の実であり、別の言い方をすれば私たちはこの人生をどのように生きてきたかを表すものなのです。 


その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。(黙示録7:9)


 (新改訳聖書より引用)


Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年5月27日日曜日

ルカ6:32 - 伝道

自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。ルカ6:32

私たちクリスチャンが語りかけていく人々は、私たちの友ではありません。むしろ敵です。私たちはこの汚い世界、邪悪な世界にイエス様の証人として出て行かなければなりません。彼らはさまざまな方法で私たちを傷つけて行くことでしょう。そのときこそ、この御言葉(ルカ6:32)を思い出しましょう。

 そして神様は私たちがまだ罪人であったときから私たちを愛してくださり、ひとり子イエス様をこの世に送ってくださったことを思い出しましょう。イエス様は私たちの罪のために死なれました。そして今私たちはイエス様のために命をささげる聖なる兵士なのです。

 どうか御言葉に励まされ、あなたの光をこの世で輝かせてください。それは、どんな中傷や悪態にも打ちのめされることなく、御言葉によって勇気づけられ、イエス様のなさった御業を宣言していくことです。あなたは一人ではありません。いつも、主がともにおられます。

  わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ43:4 

この御言葉は主の言葉に忠実な人に与えられた神からのメッセージです。 みなさんに、たくさんの祝福がありますように。


 (新改訳聖書より引用)


Evangelist Yumi, Acts 29 Japan 
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