2012年3月31日土曜日

どっちが本当のお母さんなの?-ソロモン王の知恵の話より

ダビデ王の子ソロモンは若くして王位を継承しました。神様が夢に現れ、一つだけ願いをかなえてあげようといわれた時、ソロモンはこう答えました。


  善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。ー1列王記3:9 


ソロモン王は神様に知恵を求めましたが、それは神様の御心にそった願いだったので受け入れられました。
 その頃に、二人の遊女が赤ちゃんを抱えてソロモン王に正しい捌きを求めてやってきました。

以下長いですが、この話を知らない方もいらっしゃると思うので、聖書より抜粋します。


 そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。ひとりの女が言った。


「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。 


 ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。 


 ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。 


朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。」 


 すると、もうひとりの女が言った。


「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。


「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。 


 そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』と言う。」 


 そして、王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。


剣が王の前に持って来られると、王は言った。


「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」 


 すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。


「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」


しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。 


 そこで王は宣告を下して言った。


「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」 


 イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。ー1列王記3:16-28 


 この二人の遊女、つまり売春婦の赤ちゃんをめぐる言い争いは、ソロモン王が剣で赤ちゃんを突き刺そうとするまで続きました。

 この剣についてお話したいと思います。
聖書には剣に関する記述がいくつかありますが、霊的な意味において神の言葉(聖書の御言葉)が剣であると示されています。


 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。エペソ6:17 


 つまり、この話を理解するためには、ソロモン王が示した剣とは本物の剣であったと同時に、神の言葉であったと読み取る必要があります。
神の言葉の性質について、聖書はこのように教えています。 


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ヘブル4:12 


 ソロモン王が剣で赤ちゃんを二つに裂こうとした時、一人の女性が生きたままもう一人の女性に赤ちゃんを渡すように懇願しました。この女性が生きている赤ちゃんの本物の母親でした。

この緊迫した場面で、彼女の心にはさまざまなことが走馬灯のようにかけめぐったことでしょう。遊女である二人の赤ちゃんは、自分の夫ではない人の子であったと思われます。神の掟(十戒)では姦淫を厳しく禁じていますが、その掟である神の言葉にふれ、彼女は悔い改めました。

 神の言葉は真理であり、人に罪を示し、悔い改めに導く力がその本質としてあります。それで彼女は自分の赤ちゃんの命を深く愛しく思い、真実の母親として一緒に暮らす権利を放棄し、偽りの女性に手渡そうと決意したのでした。

これは、自己を十字架につけてイエス様に従う姿を私達に教えてくれます。


 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。ーマタイ10:38,39 


 一方、別の女性は赤ちゃんを殺してしまって、どちらのものでもないようにしてほしいとソロモン王に言いました。彼女には赤ちゃんに対する愛情や憐れみの心がなかったのです。
剣、すなわち神の言葉によって彼女の本性があらわにされたのでした。

そして、ソロモン王は二人に判決を言い渡しました。当然、赤ちゃんを生きたまま他の女性に譲ろうとした女性が、本物の母親です。


 知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。箴言16:23 


 ソロモン王はまず神の御前にへりくだって知恵を求めました。その知恵とは、実は神であり、ことばであるイエス様です。


 知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。箴言8:12 


わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。箴言8:15 


 聖書は知恵の宝庫です。私達は自分の知恵をふりしぼって問題を解決しようとしがちですが、もっと神の言葉を信頼しましょう。人の心を変えるのは真理(神の言葉)です。真理は善悪を浮き彫りにし、へりくだる者には恵みを豊かにふり注ぎ、救いにいたる悔い改めに導き、邪心の者の目に覆いをかけます。


 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ヤコブ4:6 


それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。2コリント4:3,4 


しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。2コリント3:16 


 (新改訳聖書より引用)


Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年3月30日金曜日

あなたの聖書は削除されていませんか? ーマタイ9章13節

マタイ9:13 あなたの聖書はなんと言っていますか?まず、英語について先に述べてみます。

 King James Version では、「...というのはわたしは正しい人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるために来たのだ」と訳されています。

 一方、New International Version とNew American Standard Version (その他)では悔い改めという文字が削除されています。「...というのは、私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」

 では、日本語の主要翻訳を見てみましょう。


 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。 新改訳


 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。新共同訳


 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。 口語訳


 わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。 回復訳


 わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。 リビングバイブル


 悔い改めに言及しているのはリビングバイブルだけでした。

 御言葉の削除は大きな罪であり、裁きが待っています。翻訳が間違っていると知りながら、それでも気にしないでいるのは正しいことではありません。私たちは常に真理を追究していく必要があります。


Evangelist Yumi, Acts 29 Japan
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2012年3月24日土曜日

主を賛美するとはー詩編96編9節の正しい解釈

皆さんはどの日本語聖書をお読みでしょうか? 
すべての聖書が正しい翻訳をしているわけではないのです。日本語でも他の言語でもどの聖書もある部分が正しく翻訳されている一方で、他の部分が誤訳の場合が多いのです。 
その中で英語の欽定訳(King James Version)が最も原語に近いと言われており、高い評価を受けています。その反対に、御言葉を勝手に削除したり曲解していることで有名なのが、New International Version(NIV)です。 

では、今回は詩編96編9節の翻訳についてみてみましょう。

  O worship the LORD in the beauty of holiness: fear before him, all the earth. (KJV)
(おお、聖さのうちに主を賛美せよ。全地よ、主の御前に恐れよ。)

  Worship the LORD in the splendor of his holiness; tremble before him, all the earth. (NIV)
(「主の」聖潔さの麗しさのうちに主を賛美せよ。全地よ、主の御前におののけ) 


この二つの違いが分かるでしょうか?
 KJVではin the beauty of holiness とあるのに対し、NIVではin the splendor of his holiness と表現されています。
  in the beauty of holiness を直訳すると聖潔の美しさのうちにあってという意味です。聖霊の力で罪から清められたクリスチャンは、イエス様にすがりながら罪を犯さないように生きるようになります。それは神の目に美しく映るのです。 


ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。1テモテ2:8(新改訳) 


このきよい手とは、聖なる生活を送ることです。罪を犯さない清らかな生活をして、祈りなさいと言っているのです。いつでも神様が求めているのは聖い生活なのです。 

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 ヘブル12:14 

つまり詩編96:9の意味は、聖なる者に生まれ変わった者として、罪を犯さないで聖い生活を行うことによって、主なる神を賛美せよ、全地において主の御前で恐れよ、ということなのです。 

では、このことをふまえて他の翻訳を見てみましょう。 
まず、先にあげたNIVについて意味を確認してみましょう。 


神の聖さの麗しさのうちに主を賛美せよ、全地において主の御前でおののけ。 


これは神の聖さだけを主張しており、私たちが御言葉に従順であれとは言っていません。このことが大きな違いであり、神の言葉をあいまいにしていることになるのです。 

次に日本語の主な翻訳を見てみましょう。

聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。(新改訳) 


聖なる飾り物を身につけよとありますが、聖なる飾り物とは何でしょうか? 神様は私たちの表面を見るのではなく、生き方そのものを見て喜ばれるのです。下の1ペテロ3章を読んでみてください。 


 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。1ペテロ3:2-4 (新改訳) 

 では、次に口語訳と新共同訳を見てみましょう。 

 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。(口語訳) 


 新改訳と似た解釈です。聖なる衣装とはカトリックの聖職者が身につけているような衣装でしょうか? 服装や装飾品のことを神様が求めているわけではないのです。 


聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。(新共同訳) 


 これはNIVの解釈に似ています。神の聖さだけを主張しています。 


 同時に、きよい生活を守りなさい。 全地は神様の前で震えおののくべきなのです。 (リビングバイブル) 


この御言葉に関しては、これまでの中でリビングバイブルの翻訳が原語に近いようです。
 (注意:リビングバイブルのすべてが正しいと言っているわけではありません) 


最後に、worship(ワーシップ)という意味についてお話します。 worshipは日本語では礼拝する、賛美するという意味です。ワーシップソングという言葉があるように、教会で歌を歌うことを賛美するとも表現しています。けれども、ワーシップとはただ単に歌ったり、手をあげたり、手を打ったり、あるいは表面的に何かを宣言することでもないのです。


 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。ヨハネ4:24(新共同訳) 


なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(口語訳) 


真理とはイエス様です。そして聖霊は私たちに聖なる生活ができるように力を与えてくださいます。聖霊を受け入れているなら、私たちは罪の軛から解放されたのです。 真理と御霊によって礼拝するとは、聖霊の力によって聖い生活をし、そのことによって主を崇めるということです。私たちの生き方そのものが、主への賛美となるのです。 

主を賛美しますというとき、あなたの実際の生き方が主を賛美しているかどうか、よく吟味してください。 


 Evangelist Yumi, Acts 29 Japan 


www.acts29japan.com
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