2015年2月15日日曜日

Peter Walked on the Sea

Matthew 14:22-33
22 And straightway Jesus constrained his disciples to get into a ship, and to go before him unto the other side, while he sent the multitudes away. 
23 And when he had sent the multitudes away, he went up into a mountain apart to pray: and when the evening was come, he was there alone. 
24 But the ship was now in the midst of the sea, tossed with waves: for the wind was contrary. 
25 And in the fourth watch of the night Jesus went unto them, walking on the sea. 
26 And when the disciples saw him walking on the sea, they were troubled, saying, It is a spirit; and they cried out for fear. 
27 But straightway Jesus spake unto them, saying, Be of good cheer; it is I; be not afraid. 
28 And Peter answered him and said, Lord, if it be thou, bid me come unto thee on the water. 
29 And he said, Come. And when Peter was come down out of the ship, he walked on the water, to go to Jesus. 
30 But when he saw the wind boisterous, he was afraid; and beginning to sink, he cried, saying, Lord, save me. 
31 And immediately Jesus stretched forth his hand, and caught him, and said unto him, O thou of little faith, wherefore didst thou doubt? 
32 And when they were come into the ship, the wind ceased. 
33 Then they that were in the ship came and worshipped him, saying, Of a truth thou art the Son of God.


I was impressed with Peter’s word in this story.

Lord, if it be thou, bid me come unto thee on the water.” (Matt. 14:28)

I found out four points in this verse;

a         Peter’s obedience to Jesus. He declared he would obey whatever He commanded him to.

b         Peter’s faith in Jesus. He trusted Jesus and he believed he could anything with Jesus.

c         Peter believed he would have peace only in Jesus.

d         He wanted to be like Jesus with higher standard.


Now let us read Jesus’ word and Peter’s reaction.


And he said, Come. And when Peter was come down out of the ship, he walked on the water, to go to Jesus. (Matt. 14:29)

The ship was a kind of fisher’s tools and he should be used to handle it. It must have been the only safe to stay in in the stormy sea. However, it wasn’t safe in fact as it was rocked by the waves. Not only was the ship tossed but also the disciples themselves were frightened by the waves.

Therefore, Jesus told Peter to step out of the ship. Peace is in Him.
Peter obeyed Him with his simple heart.
He got out of the unstable ship and walked toward Jesus on the water, which seemed impossible in general.

Many people love this story because Jesus helped sinking Peter with His mighty loving hand. A lot of paintings of this scene prove that people love the story.
But God doesn’t wish you will sink due to the lack of faith. Without faith you can never please Him.


Hebrews 11:6 But without faith it is impossible to please him: for he that cometh to God must believe that he is, and that he is a rewarder of them that diligently seek him. 
Jesus rebuked Peter for his little faith in the verse 31 as below.

O thou of little faith, wherefore didst thou doubt? (Matt. 14:31)

Jesus wished Peter had looked up at only Jesus, trusted on Him, and come to Him without any doubt.


The Lord is talking to us now.


Obey My word and have faith in Me.

Step out of the unsolid foundation.

Focus on only Me.

Come to Me.

Live like Me.

And I will walk with you.

You will find peace in Me.


Every scripture was quoted from the King James Bible.



Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan








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2015年2月14日土曜日

水の上を歩いたペテロ




この絵が何を示しているかご存知ですか。
まず、絵の背景となっている聖書の箇所を読んでください。

マタイによる福音書14:22-33
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。

群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。





ペテロの言葉に注目してください。私はこの言葉に心を動かされました。


「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(28)

この言葉の裏には少なくとも次のような意味が込められています。
      「イエス様が命じられることなら、何でも従います。」-忠誠心
      「イエス様にすがれば、なんでもできると信じます。」-信仰告白
      「イエス様のもとへ行きたい」-平和と癒しを懇願
      「イエス様のようになりたい」-より高い理想への到達


次に、イエス様がペテロに言った言葉を深く読んでみましょう。


イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。(29節)

舟とは、漁師にとって大事な仕事道具の一つで、操縦にも慣れていたはずです。
しかも嵐の晩、舟はペテロにとって唯一の安全圏だったのです。
しかし、実際は波に揺られ、遭難しそうになっていたので安全ではありませんでした。
舟だけでなく、弟子たちの心も揺さぶられていました。
それで、イエス様は舟にしがみついていないで、そこから出てきなさい、とおっしゃったのです。
平和と平安はイエス様のうちにあるからです。

ペテロは素直にイエス様の言葉に従いました。
ただ浮いただけでも、歩いただけでもありません。
イエス様の方に向かって進んだのです。
彼は不安定な舟から脱出し、この世の目には不可能とも思える水の上を、歩いて進んだのです。

この出来事は、私たちクリスチャンにとってどのような意味を持つのでしょうか?

多くの人は、ペテロが水上を歩いたことよりも、溺れかけてしまった場面の方に感動します。
溺れかけたペテロをイエス様が愛の御手で救っている構図の名画が数多く残されているのも、多くの人がそのシーンを愛しているからです。
しかし、神様が私たちに望んでいるのは、救いの手を期待することではありません。
信仰がなければ、神様を喜ばせることはできないのです。

ヘブル 11: 6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


イエス様は溺れかけたペテロに何と言ったでしょうか?

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(31節)

イエス様はペテロに疑いを持たずに、ずっとまっすぐイエス様だけを見上げ、信じ、ご自分のもとまでたどり着いてほしかったのです。

今あなたが抱えている問題は何ですか?
あなたをがんじがらめの状態にしているものはありませんか?
罪の誘惑から解放されたいと思いませんか?
ミニストリーで頭をかかえていたりしませんか?
今、あなたの信仰の土台は、ペテロの舟のように不安定になっていませんか?

イエス様は、私たちに語りかけています。

私の言葉を聞き、信じなさい。
そこから出てきなさい。
私の方に歩いてきなさい。
私のようになりなさい。
私といっしょに歩いていこう。
私のうちに平安を見出すであろう。


このメッセージがみなさんにとって祝福となりますように。


新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan








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2015年2月8日日曜日

強盗の悔い改めと救いー十字架にて


今回は、イエス様とともに十字架刑に処せられた強盗に焦点を当て、救いについて書いてみたいと思います。
皆さんもご存知のとおり、イエス様は33年の生涯で一度も罪を犯したことがありませんでした。しかし、神の子であると宣言したため、ユダヤ人の宗教リーダーに憎まれ、無実の罪で死刑にされたのです。

イエス様が十字架にはりつけられた時、通りすがりの民衆も、宗教指導者たちもイエス様を激しくののしりました。
同じく十字架にはりつけられていた強盗﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽た時まで、れは、正当でさえ、イエス様のことをののしっていたのです。
その時の様子を、聖書で確認してみましょう。

マタイによる福音書27:39-44
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 

言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。


下線を引いた部分に注目してください。
ここでは、二人ともののしったとしるしてあります。
しかし、ルカによる福音書では、片方だけがののしったように記されています。

確認してみましょう。

ルカによる福音書23:39-43 
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」




聖書の記述に食い違いがあるように感じませんか?
ののしったかと思えば、片方ではたしなめたとあり、まるで別人であるかのように描かれています。
しかし、これは同一人物からの言葉なのです。

彼らが何の理由で強盗を犯したかは、聖書に記されていません。
しかし、彼らの犯した罪は死刑に値するものだったのです。
牢屋に入れられた時から、十字架にかけられた時まで、彼らは自分の置かれた状況を呪ったことでしょう。
育った環境や、生活環境、職場の待遇…
もしかしたら、家族や周囲の人たちのことも呪ったかもしれません。
「もし、あの時自分に金があったら、強盗なんかしなかったのに」
「もし、あいつが俺を助けてくれたいたら…」
など、自分勝手な思いに満たされていたことでしょう。
そうです、犯罪者の心を占めていたのは自己中心さだったのです。

そんな自分勝手な彼らの間に、神の子と自称するイエス様が貼り付けられていたのです。
両手両足を固定されていた彼らが自由に動かせたものは、目と口と耳だけでした。
傷だらけのイエス様を、凄んだ眼差しで激しく罵ることぐらいしか、彼らの心の欲望を満たすことはできなかったのです。

しかし、イエス様はどんなにののしられても、嘲けりを受けても、殴られても、蹴られても、唾をはきかけられても、相手を呪ったりしませんでした。
ただじっと耐えて、群衆すべてのひどい仕打ちを一身に引き受けたのです。
その姿は、まさに無垢な子羊、いけにえでした。
そして、こう神に祈りました。

ルカによる福音書23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

それは、今までの人生で聞いたことのない祈りでした。
強盗犯のうちの一人は、この時真にイエス様と出会い、自分の罪を思い知らされたのです。
彼は当然死罪に値するのだと悟ったのです。

彼は、悔い改めました。
イエス様が主であり、救い主であると告白しました。信仰告白です。
彼は罪の赦しをイエス様に求めました。救いの祈りです。
罪を悔い改めないもう一人の強盗をたしなめました。これは、伝道と同じです。

もう一度言います。
手足が動けない状態で、彼に自由があったのは、目と口と耳でした。
目と耳で、彼はイエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たのです。
口で告白し、祈り、伝道をしたのです。
人生最期の最期で、彼はクリスチャンとして主から信仰を与えられ、救いの実(行い)を実践したのです。
強盗の心を変え、新しい命を与えたのは、イエス様です。
御言葉は真実であり、命を与える力があります。
主イエス・キリストに栄光がありますように。


マタイによる福音書13:14-16
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。



新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan




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