2015年2月8日日曜日

強盗の悔い改めと救いー十字架にて


今回は、イエス様とともに十字架刑に処せられた強盗に焦点を当て、救いについて書いてみたいと思います。
皆さんもご存知のとおり、イエス様は33年の生涯で一度も罪を犯したことがありませんでした。しかし、神の子であると宣言したため、ユダヤ人の宗教リーダーに憎まれ、無実の罪で死刑にされたのです。

イエス様が十字架にはりつけられた時、通りすがりの民衆も、宗教指導者たちもイエス様を激しくののしりました。
同じく十字架にはりつけられていた強盗﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽た時まで、れは、正当でさえ、イエス様のことをののしっていたのです。
その時の様子を、聖書で確認してみましょう。

マタイによる福音書27:39-44
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 

言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。


下線を引いた部分に注目してください。
ここでは、二人ともののしったとしるしてあります。
しかし、ルカによる福音書では、片方だけがののしったように記されています。

確認してみましょう。

ルカによる福音書23:39-43 
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」




聖書の記述に食い違いがあるように感じませんか?
ののしったかと思えば、片方ではたしなめたとあり、まるで別人であるかのように描かれています。
しかし、これは同一人物からの言葉なのです。

彼らが何の理由で強盗を犯したかは、聖書に記されていません。
しかし、彼らの犯した罪は死刑に値するものだったのです。
牢屋に入れられた時から、十字架にかけられた時まで、彼らは自分の置かれた状況を呪ったことでしょう。
育った環境や、生活環境、職場の待遇…
もしかしたら、家族や周囲の人たちのことも呪ったかもしれません。
「もし、あの時自分に金があったら、強盗なんかしなかったのに」
「もし、あいつが俺を助けてくれたいたら…」
など、自分勝手な思いに満たされていたことでしょう。
そうです、犯罪者の心を占めていたのは自己中心さだったのです。

そんな自分勝手な彼らの間に、神の子と自称するイエス様が貼り付けられていたのです。
両手両足を固定されていた彼らが自由に動かせたものは、目と口と耳だけでした。
傷だらけのイエス様を、凄んだ眼差しで激しく罵ることぐらいしか、彼らの心の欲望を満たすことはできなかったのです。

しかし、イエス様はどんなにののしられても、嘲けりを受けても、殴られても、蹴られても、唾をはきかけられても、相手を呪ったりしませんでした。
ただじっと耐えて、群衆すべてのひどい仕打ちを一身に引き受けたのです。
その姿は、まさに無垢な子羊、いけにえでした。
そして、こう神に祈りました。

ルカによる福音書23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

それは、今までの人生で聞いたことのない祈りでした。
強盗犯のうちの一人は、この時真にイエス様と出会い、自分の罪を思い知らされたのです。
彼は当然死罪に値するのだと悟ったのです。

彼は、悔い改めました。
イエス様が主であり、救い主であると告白しました。信仰告白です。
彼は罪の赦しをイエス様に求めました。救いの祈りです。
罪を悔い改めないもう一人の強盗をたしなめました。これは、伝道と同じです。

もう一度言います。
手足が動けない状態で、彼に自由があったのは、目と口と耳でした。
目と耳で、彼はイエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たのです。
口で告白し、祈り、伝道をしたのです。
人生最期の最期で、彼はクリスチャンとして主から信仰を与えられ、救いの実(行い)を実践したのです。
強盗の心を変え、新しい命を与えたのは、イエス様です。
御言葉は真実であり、命を与える力があります。
主イエス・キリストに栄光がありますように。


マタイによる福音書13:14-16
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。



新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan




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