2014年12月24日水曜日

カナの婚礼での奇跡について


ヨハネ2:3
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。


カナの婚礼にて最初の奇跡が行われましたが、そのはじまりは祝宴に出すためのぶどう酒がないという母マリアの一声でした。マリアも他の誰も気がついていませんでしたが、それはイエス様がこの世に降ってきたことの目的を暗示するものでした。




ヨハネ2:6,7
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。



そしてイエス様が使用人に命じたことは、清めの水がめに水を満たすことでした。
この清めの水に関しては出エジプト記に記されています。


出エジプト29:4新共同訳
次に、アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で清める。


身を清めるために、祭司たちは幕屋に入る前に水で罪を清めなければなりませんでした。
 イエス様が水をぶどう酒に変えるために用いたのは、その清めのための水がめに入れた水でした。
ぶどう酒とはイエス様の血のシンボルです。


マタイ26:27,28
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。



旧約時代は祭司たちは罪を贖うために、雄牛や雄羊を毎日神殿でささげていましたが、イエス様が十字架で血を流されたことによって私たちの罪は贖われました。
クリスチャンである私達は王家を継ぐ祭司ですが、以前のように幕屋に入る前に雄牛をほふったり、水で清める必要はありません。


ヘブル10:19
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。


マリアがイエス様にぶどう酒が足りないことを伝えたとき、イエス様の宣教生活が始まったばかりでした。十字架につくまでまだ時があったので、イエス様はこう言いました。



ヨハネ2:4
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」


ヨハネ2:10
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」


イエス様の尊い血は、この後つづく宣教生活の最後までとっておかれました。そして、その血、すなわち「ぶどう酒」は全人類の罪を贖うことのできる、最も高価なものでした。


1テモテ2:6
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。


そして、イエス様は花婿として花嫁である私達を迎え入れてくれました。尊いぶどう酒を飲んで罪から清められたなら、今度は聖なる花嫁として命の水を飲んで生きます。この水は罪から清めるために体の外側を洗うものではなく、罪から解放された者がこの水を飲むことによって日々新たにされていくものです。婚礼の奇跡はイエス様の最初の奇跡でしたが、聖書の最後の章も結婚で締めくくられています。


黙示録22:17
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。



一部を除き新改訳聖書より引用



Evangelist Yumi
Acts 29 Japan





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

聖餐式のパンとぶどう酒



今回は聖書で語られているぶどう酒の正体についてお話したいと思います。
ほとんどのプロテスタント教会で、多少の形式に違いはあっても、毎月聖餐式が行われていると思います。イエス様が最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子達に分け与えました。そのときの言葉に従って聖餐式は行われのが一般的です。また、第1コリント人への手紙の中で、聖餐式を受けるにふさわしい基準が記されています。
では、聖句を読んで確認してみましょう。



マタイ26:26-29
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません


1コリント11:23-30
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。


このパンは、イーストあるいはパン種とも呼ばれる酵母の入っていない、いわゆる「種なしパン」です。パン種を入れることによってパンは膨らみますが、パン種とは聖書では罪を表しています。パン種が入っていないとは、小さな疑念もなく、罪もない純粋さを象徴しているのです。

モーセ率いるイスラエル人たちをエジプトから脱出させたことを記念して、神様はモーセとその民に毎年過ぎ越の祭りをお祝いするよう命じました。そのときに、種なしパンを食べるように命じたのです。この過ぎ越の祭りにイエス様が弟子達と最後に食事をしたのが、最後の晩餐なのです。

この種なしパンを裂く行為は、肉体的には罪が全くないイエス様がカルバリーの丘でむち打たれ、十字架に釘で打ち付けられたこと、そして死んだことを意味します。一方霊的には、イエス様を信じる一人一人に、聖霊によってイエス様が分け与えられていることを意味しています。
そいうわけで、カトリックであれプロテスタントであれ、聖餐式で用いるパンは種なしパンなのです。

問題なのは、ぶどう酒の方です。多くの教会ではぶどうジュースが用いられていますが、中にはアルコールの入ったぶどう酒(ワイン)こそ聖書にのっとった聖餐式であると、胸を張っている教会も存在しています。はたして聖餐式で飲むぶどう酒は本当にワインを指しているのでしょうか?

答えはノーです。
聖書には2種類のぶどう酒が出てきます。1つはアルコールの入ったワインです。もう1つはアルコールの入っていないぶどうジュースです。

もう一度聖句を見てください。ここで示されているのは「ぶどうの実で造った物」(マタイ26:29「杯を飲む」ですが、どちらもアルコール入りのワインとは言っていません。仮にこれらの言葉がワインを指すのであれば、この2つ話の本質的意味が台無しになってしまうのです。

ぶどうの果汁をアルコール入りワインにする方法は、パンを膨らます過程と似ています。要するに、ぶどう汁に酵母を入れて発酵させるのです。
仮に、イエス様と弟子達が飲んだ杯が発酵したアルコール入りのワインだったとしたら、イエス様の血を象徴するものではなくなってしまうのです。いけにえとなるイエス様の血は、罪など混じりけのない純粋なものでなければならなかったのです。

それなのに、なぜ種なしパンとともに、酵母の入った(罪)ワインを聖餐式で飲むことができるでしょうか?

もう一度次の聖句を読んでください。

1コリント11:27
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

「ふさわしくない」とは罪から離れないでいる姿を意味しています。
ここからも分かるように、イエス様が命じるぶどう酒には一切アルコールが含まれていない、「ぶどうの実で造った」ぶどうジュースなのです。
もちろん、カナの婚礼でイエス様が水をぶどう酒に変えた奇跡においても同じことが言えるのです。

どうかサタンの罠にだまされないでください。
彼は今でも同じ台詞で人を欺き、地獄へと誘っているのです。
「ワインは体にいいのだよ。飲んだって、絶対に死にはしないよ」と。


創世記3:4
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」



ぶどう酒について書いた他の記事も参考にしてください。


新改訳聖書より引用
                                                                                                                           


Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN



2014年12月14日日曜日

ザアカイが迎え入れたものールカ19章より

以前書いた短いブログ記事より
「取税人との食事」と合わせてお読みください。「取税人との食事」


ルカ19:5,6
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

ルカ19:9,10
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


イエス様がザアカイに急いで下りて来なさいと言われた時、彼はそれを実行し、さらにイエス様をお迎えしました。ザアカイはイエス様を客として迎え入れたのではなく、主として心に迎え入れました。そして彼自身が神の宮となりました。イエス様は2,3日宿泊するつもりだったのではなく、ザアカイとともに永遠に生きるつもりでした。イエス様は命だからです。


新改訳聖書より引用


Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村