2014年11月29日土曜日

憎む神、怒る神

今回は神が憎んでいることについて書いてみたいと思います。 

御言葉の引用は、日本語は新改訳聖書第3版(新改訳)、英語はThe King James Version (KJV)を用いています。 

 「神は愛なり」という言葉は、クリスチャンではない人の間でも深く浸透している考え方だと思います。彼らの解釈は、神様は愛のお方であるから、どんなことも受け入れ、許してくれ、愛してくれるというものです。あるがままの私を受け入れ、ずっと見守ってくださるという考え方です。 

しかし、聖書ではそのようなことは語られておらず、単なる人の思い込み、またはファンタジーと言えるでしょう。 下の聖句を読んでみてください。 

詩編 7:11 
神は正しい審判者、日々、怒る神。 

日本語のみでこの聖句を読んでみると、神様が何に怒っているのかよく分かりませんね。 KJVを読むと神様が怒っている内容が明瞭です。 

Psalm 7:11 
God judgeth the righteous, and God is angry with the wicked every day. 
(神は正義をもって裁き、日々邪悪な者に怒っている。) 

邪悪な者、つまり罪を犯している者に怒っているのです。神様は罪から離れない人を受け入れてはいないのです。神様は悪を行う者を裁かれます。 

ローマ8:16 
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

この御言葉が示す通り、クリスチャンは神の子です。私たちのお父さんは神様なのです。神様の子であるなら、神様の愛することを愛し、憎むことを一緒に憎んでいかなければならないのです。 もし、心地よい罪から離れたくない、あるいは離れがたいと思っているのなら、あなたのお父さんは神様ではありません。悪魔です。 

ヨハネ8:44 
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 

 ところで、あなたの生き方は神様を喜ばせていますか? 神様を怒らせたり悲しませたりしていませんか? つまり、聖書の言葉を口では愛していると言いつつ、同じ口から相手をののしる言葉が出てしまったり、または心の中で思ってしまったり…酒やタバコをやめられないでいたり、または隣人の罪を容認してしまったり...心の中で姦淫を犯してしまったり、他人のものをうらやましがったり… 

箴言8:13 
主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。 

1コリント6:9-10
 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。 

ちなみに、不品行な者には同性愛も含まれます。 

これらの悪も神様は許してくださっていると教えている偽預言者(牧師)も多く存在しています。でも、だまされてはいけません。だまされたままでいることも罪なのです。 

ルカ9:23 
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 

KJVにはこう書いてあります。

Luke 9:23 
 And he said to them all, If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow me. 

「自分を捨て」”deny himself”とは、あなたのこの世で願っていることをあきらめなさいということです。イエス様の弟子は父の葬儀に出ることをあきらめました。家族との生活もあきらめました。最後には自分の命をも捧げました。 

「自分の十字架」とはあなたのこれまでの罪深い生き方を指しています。罪のうちに生きることは居心地良いものです。その慣れ親しんだ罪の生活を断念し、心の十字架にはりつけます。そして、イエス様の言葉を守るため、そしてイエス様の御言葉を広げていくため、心の中で十字架を背負いつつ一生を捧げていくのです。 

宣教師の多くは、この世で味わうことができる幸せを十字架にかけ、神様を知らない人たちの中に身を捧げました。ある人は結婚をあきらめました。ある人は豊かな生活をあきらめました。ある人は仕事をあきらめました。それらを享受することは罪ではなかったと思います。でも、この御言葉を胸に、イエス様の道を歩んでいったのです。そして、今私たちに信仰をもつ道が拓かれたのです。

ローマ8:8 
肉にある者は神を喜ばせることができません。 

ヘブル11:6 
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

「肉にある」とは罪を犯している状態を意味しています。クリスチャンであっても罪を犯せば神様を怒らせているのです。決して神様が喜んでいると思ってはいけません。信仰とは、イエス様の力にすがれば罪を克服できるという信頼と実行力です。 

神様の愛する義をあなたも愛しますか? 義とは神様の言葉すべてです。あなたがもし神様を愛するなら、神様もあなたを喜んで受け入れてくださいます。 

ヘブル1:9 
あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」 

この聖句に「神よ」という呼びかけがありますが、実際は「神は」と訳した方が分かりやすいと思います。これは神様への言葉ではなく、神様を信じて愛する人への言葉だからです。 

神様に喜ばれる聖なる生き方をしましょう。そうすれば、神様はあなたを何倍にも祝福してくださることでしょう。

Evangelist Yumi
Acts 29 JAPAN


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